江戸時代の産業・紙漉き
昔、山口村では農家の副業として紙漉きが行われていました。紙漉きを行っていたのは主に名来村、下山口村、上山口村の約60戸で、敷地内にため池(約2坪)を造り、有馬川から道路に沿って設けられた水路から水を引き込み、その場で紙漉きを行っていました。
江戸時代の中頃までに始まったとされ、名塩の紙漉き原料の雁皮(がんび)とは異なる楮(こうぞ)と反古紙(ほごし)を使い、品質の優れた扇地紙を、京都や大阪の問屋に出荷していました。
また、山口村の紙漉きは評判が良く、下山口村の住民であった弥次兵衛とその妻は、文政2(1819)年、播州姫路藩から招かれ、藩札や木綿札を漉くための製紙工房を建て、多くの作業者を雇い、藩の財政立て直しに大いに貢献したそうです。
ところが、明治時代末期から大正時代に入ると製紙の機械化などにより紙漉きは徐々に衰退し、昭和初期を過ぎる頃には紙漉きをする農家はなくなってしまいました。
【宮っ子(山口版)やまぐち異聞録より】