有馬川や船坂川でホタルが見られなくなってくる頃、私たちの町、西宮山口 では、袖下踊りや音頭取りの練習に力が入り、太鼓の響きが聞こえてまいります。
8月に行われる山口各地区の盆踊りでは、船坂地区を除いて、袖下踊りだけが踊られます。
私たちは「山口町古文化保存会」を組織し、山口袖下踊りを郷土の財産として継承する活動を続けています。
このページでは、私たちが大切にしている袖下踊りについてご紹介します。
この記事の作成に当たっては、山口町古文化保存会で相談役をされている今井昭造さん、船坂老人クラブの野口照之会長にご協力をいただきました。
大化3年(西暦647年)、今から約1370年前に孝徳天皇が、有馬温泉に3カ月間行幸されたという記録が日本書紀に残されています。
天皇御一行が山口に来られたとき、村人が身ぶり、手ぶりで喜びを表現したことが袖下踊りの発祥であるとの伝説が残されています。
西宮市では二つしかない無形民族文化財に指定されている
袖下踊りは、昭和49年(1974年)、「山口袖下踊り」として、西宮市から 無形民族文化財に指定され現在に至っています。
平成16年3月末に西宮市教育委員会から発行された「新西宮の文化財」に山 口袖下踊りが掲載されていますので、原文のまま紹介させていただきます。
内容は、49年に指定された当時のままです。(下記の「山口村誌」の記事も合 わせてご覧いただくと、より詳しくわかります。)
保存関係者 山口町袖下民謡育成保存会
所在地 西宮市山口町
市指定 昭和49年(1974年)3月20日
この踊りは、8月14日、15日の盆踊りの時に、夜を徹して地区住民が 踊るもので、別名ソンジャ踊りと呼ばれ、新仏供養のために踊るといわれている。
由来は、孝徳天皇が有馬に行幸された時、山口の里に立ち寄られたのを里人は喜び、それを手振りにして表したのが、起こりと伝えられている。
踊りの音頭は船坂の人が伊勢音頭をまねて作ったと伝えられている。
音曲 は口説き調で、音頭取り1人、太鼓は大太鼓1人、小太鼓1人である。歌は「妹背山女庭訓」「壷坂霊験記」「忠臣蔵九段目」等20有余を超える。
踊りの振りは、袖下踊りの名のごとく、手を肘から下だけしか動かさず、足はすり足、爪先を上げることをさけるなど、座敷踊りとしての特徴がある。
口説き節、歌詞、踊りの手などから考えて、この踊りは孝徳天皇以来のものとは考えにくく、18世紀頃からの伝承と思われ、本市の無形民俗文化財 として貴重である。
盆踊りでは袖下踊りしか踊らない
☆山口町各地区(名来・下山口・上山口・中野)の盆踊りは、かつては、3日間連続で踊られた時期もありましたが、現在では、8月の中旬に1日だけ行われます。
☆金仙寺地区では、盆踊りは行われていません。
☆各地区の盆踊りで踊られるのは、袖下踊りのみです。
☆船坂地区では、船坂踊 りのほかに炭坑節なども踊られますが、袖下踊りは踊られません。
(一時期、船坂踊りがまったく踊られない時期があり、このときは下山口などから音頭取りに来てもらって袖下踊りを踊りました。)
☆2年に一度、山口町古文化保存会が主催する(袖下踊り)中央大会が開催されます。
☆ 袖下踊りは、やぐらの上で取られる音頭とともに踊られます。
☆ 音頭取りは、取り手と大小の太鼓(昔は桶を叩いていたらしい)の叩き手(叩き手は、お囃子も受け持つことが多い)の計3名で構成されることが普通になっています。この3名が取り手と叩き手を交代しながら受け持ちます。
まれにお囃子手が独立することがありますが、このときは計4名になります。
☆少し以前の録音を聴くと、踊り手もお囃子を唱和しています。上手な音頭取りには、踊り手も自然と声が出ることでしょう。
☆ 音頭の文句(歌詞)は、浄瑠璃から引用した物語が多く、1曲が普通15から20分程度ですが、演題によっては20分を超えるものがあり、踊る側もスタミナを必要とします。
☆山口地区では、かつて歌舞伎とともに浄瑠璃が流行した時代がありました。興行師が、農閑期の空き地に芝居小屋を建て、役者を呼んで歌舞伎を開催したこともあったそうです。
こうした背景があって、山口の音頭に浄瑠璃が取り入れられたようです。
☆地理的にも近い播州地方の「播州音頭」も念仏踊りに浄瑠璃を取り入れたものと言われており、影響が感じられます。
< 盆踊りの音頭の演題 ・下山口地区>
◆傾城阿波鳴門 阿波重郎兵衛 口の段
◆傾城阿波鳴門 阿波重郎兵衛 奥の段 ※こちらをクリックする聴くことができます。
◆壺坂霊験記 お里沢市 口の段
◆壺坂霊験記 お里沢市 奥の段
◆桂川連理之柵 お半長ヱ門
◆白木屋お駒
◆勢州阿漕浦 平治住家之段
◆新山口音頭「開け行く山口」
◆伊勢道中
◆石童丸
未来に残す袖下踊り
☆ かつて青年団があったころは、青年団が盆踊りの準備などをし、音頭取りを 競い合ったほどでした。
昭和30年代になって経済環境が変化したために、 青年団の活動が衰退し、盆踊りは自治会が受け持つようになりましたが、袖 下踊りが踊られない時期もありました。
☆ 現在、各地区とも、音頭取りが数名しかいないので、育成が課題となっています。
☆下山口では、現在音頭取りは10名で、下山口自治会の中の「音頭部会」として7月の日曜日に練習をします。
☆上山口自治会では、平成19年に“上山口音頭保存会”を立ち上げ、現在6名(内1名は女性)で音頭の伝承をしています。
毎年7月下旬から日曜日を除く毎晩練習をし、8月上旬に上山口婦人会、自治会、音頭保存会の皆様による最終仕上げが行われます。
☆中野地区では、音頭取りは現在5名ですが、小学生から高校生まで6名に、盆踊りの前の土日で、10回 程度、太鼓とお囃子を教えて、後継者の育成に努めています。
☆名来地区では、「音頭研究会」の皆さんが7月からほぼ毎日練習します。音頭取りは、現在11名。
☆ 山口中学校と山口小学校の運動会では、全校生徒と一緒に婦人会、民謡グル ープの約30名、山口町古文化保存会のメンバー5名が袖下踊りを毎年踊り、このための練習も学校で子どもたちと一緒に行っています。
☆ 各地区盆踊りの前に袖下踊りの練習を行いますが、最近では、山口ホールで 「袖下踊り伝習会」を、山口町古文化保存会の主催で、夜間に開催しています。
扇踊りのこと
☆ 袖下踊りと扇踊りを合わせて山口踊りと言われていましたが、扇踊りは、平成21年春の山口センターのオープン記念式典が山口ホールで開催された 際に、舞台上で踊られた以後は踊られていません。
現在、踊れる人は婦人会 や民謡グループを合わせて数十名。
扇踊りの音頭は袖下踊りと同じ曲で踊られます。(詳しくは、下記の「山口村誌」をご覧ください。)
☆扇踊りがほとんど踊られなくなった理由には、扇子を波打つように動かすのが難しく 踊りを習得しにくいからという意見がありますが、扇踊りの方が、袖下踊りより形がはっきりしていて覚えやすいという意見もあります。
☆30年ぐらい前までは、山口小学校の運動会で1年交替で袖下踊りと扇踊りを踊っていましたが、扇踊りが文化財 に指定されていないことも関係してか、次第に踊られなくなり今日に至っています。
山口村誌に見る袖下踊り
西宮市が編纂し、昭和48年春に発行された「山口村誌」に以下の記述がありますが、既に現状とは違っている部分もあり、時の流れを感じざるを得ません。
※原文のままご紹介します。
第10章 年中行事・風俗 3 民謡
焼けつくような真夏の太陽に汗を流し、野良仕事を終えて家路に急ぐ足どりも、その夜の盆踊りのことを思えばつい軽くなる。
老若男女がうち揃い、 村の広場に集って、日頃の苦労も忘れ、たたく太鼓の音に、やぐらから流れる悠長な音頭に和して踊り狂う夏の一夜の盆踊りこそ、年中最大の慰安である。
この地独特の民謡「山口踊り」は、戦前盛んに踊り伝えられていたが長い戦争の影響と、時代の変遷によって趣味や娯楽も変わり、この行事もうすらぎはじめたので、昭和24年音頭とりの人々や、当時の村役、各種団体の代表者らその他有志の人々によって「山口袖下連中」の名のもとに協力団体を組織し、山口踊りの復興に努めたのである。
この山口踊りは、伝説によると今から1300余年前、孝徳帝が有馬温泉に行幸のおり、車駕をこの地に駐められたとき、村人がその喜びを手ぶり身ぶりで表現して歓迎したのがはじまりであるといわれ、ヒジから下の両手の手ぶりを主として踊ることから俗に「袖下踊り」といわれている。
もう一つは、山口はもとその特産であった扇の地紙を京都に売出していた 関係から、祇園の舞妓たちがそのお礼の意味で振付けたといわれる“扇踊り” がある。
この二つを総称して“山口踊り”というのであるが、前者が女性的であるのに対して後者は少し活発で、音頭は同じ節まわしで踊ることが特徴 である。
普通民謡は洋楽、三味線、尺八、つづみ、太鼓などの囃子で踊るが、この 山口踊りは、大小二つの太鼓だけで、しかも音頭そのものを、浄瑠璃から引 用した物語を独特の節廻しで歌い、その歌詞も「石童丸」「壷坂霊験記」「玉 藻の前」など古くからあるものや、昭和初年に作られた「山口音頭」、昭和 27年西宮市との合併記念の「新山口音頭」などがあり、それをオン、メン、 タタキ、ナガシと節に変化をつけ、音頭だけ聞いてもその節廻しに真価がある。
「扇踊り」の方は、明治30年ごろから一時中絶し、「袖下踊り」ばかりが 踊られていたが、大正5年ごろ数人の人々によって再現され、袖下踊りに交って踊っていたことから一段と興味を呼び、習得者が増加して今日にいたっ ている。
昭和のはじめ、神有電車の開通を記念して鈴蘭台において、各地の盆踊り 大会に参加し優秀の折紙をつけられた程の特異性をもった踊りで、当時有馬郡農会が農村娯楽として推奨し、これとともに山口踊りも一般に知られて盛 んになり、昭和26年西宮市との合併記念市民おどり大会にも参加して優勝した。
しかし1曲踊るのに20数分もかかり、手ぶり、身ぶりに表情をこめて踊るむずかしい踊りであって、普通の民謡とちがい一種独特の踊り方であるため中々容易に踊れない難点があり、音頭とりの後継者とともに、青少年層への普及と奨励が急がれている。
船坂踊りのこと
下の記事は、2013年6月4日に、船坂老人クラブ 野口照之会長にインタビューした内容を中心に書いています。
☆野口会長は昭和11年生まれ。20歳の頃、明治30年生まれの先輩に音頭取りの手ほどきを受けた。
☆ 山口音頭と同様に船坂音頭も浄瑠璃をもとにした演目。
☆しかし、音頭の節回しも踊りも違ったものである。
☆ 今の船坂音頭を昔は山口音頭といっていた。
※船坂音頭 阿波の重郎兵衛 クリックすると聴くことができます。
☆播州音頭も踊られていたが、踊りが難しくすたれてしまった。(100年から200年続いたという。)
☆船坂音頭は、取り手1名と太鼓叩き1名の2名で構成され、囃子言葉は太鼓が担当する。
☆ 盆踊りでは、櫓を中心に左回りで踊りの輪をつくる。船坂以外の山口町の各地区では右回り。
☆船坂では、盆踊りに、船坂踊り以外に炭坑節や河内音頭も踊られる。
☆高度成長期には地区外で働く者が多くなり、青年団活動が衰退した頃から、船坂踊りが盆踊りでも踊られない時期が続き、下山口などから音頭取りを呼んで袖下踊りを踊っていた。
☆平成11年に「音頭保存会」を発足させて、船坂音頭の保存に努めている。
☆具体的には「阿波の重郎兵衛」1曲だけを練習するというもの。
☆平成16年からは、新たに「山口古蹟名勝調べ(船坂編)」が加わった。
☆船坂地区の音頭取りは、現在5名。
袖下踊りは、私たち西宮山口の誇りです
私たちはこの踊りを大切に守り、子や孫に引き継いでいきたいと考えています