善照寺

善照寺正面     黄金山善照寺

黄金山 善照寺
真宗大谷派(東本願寺末寺)
創立 寛正2年2月10日(1461年)
沿革 初めは浄土宗であった。室町時代、本願寺八世蓮如上人来錫のおり上人に帰依するのもが多く真宗になったと伝えられています。
開基 釈善想

本尊 阿弥陀如来 (別名、浮足如来さんとして広く知られており金銅仏で、由来はいろいろな伝記や縁起に述べられています。 )

浮足如来さん

 

正面入口左の石碑は本尊縁起が刻まれています。⇒ 「水中出既 本尊黄金佛 善照寺」、裏面「又兵衛(第8代)」と記されています。年代不詳。

石碑

阿弥陀如来にまつわる伝説を紹介します。また、「西宮ふるさと民話」にも如来さんの話があります。

詳細はこちら⇒西宮市HP  「黄金(おうごん)の仏さま」

本尊 阿弥陀如来の縁起
<善照寺縁起 >
寛正元年(1460年)7月24日、加東郡上久米村(現加東市)の大井ガ池から出現した霊像で、その後約1年の間、近くの大岩の上で信仰されていたが、翌2年8月16日、隣村畑村の鹿野山・朝光寺の如意坊の草庵に移された。同月25日と26日の2夜に及ぶ夢告により、住僧如意坊は如来を背負って有馬郡船坂村へと赴いた。 ”阿弥陀如来を安置せよ”という同様の夢告を同じ両夜みた善照寺の善想は、迎えに行き、金仙寺で如意坊と出会い、同道して善想の草庵に入った。
この縁起では如来の出所は上久米村の地で、船坂村への移置の主役は朝光寺の住僧如意坊である。

 

<加東郡誌 大正12年>
日照山・東光寺(真言宗高野派)の「略縁起(弘化3年3月調)」が加東郡誌に掲載されている。
昔、寛正元年(1460年)頃、上久米村の山裾に寺があり、大日尊、阿弥陀仏などを祀っていたが、ある年、激しい長雨が続いたため山崩れがあり、寺が土中に埋まった。・・・・・・・・・もう一体の阿弥陀仏は、地中に埋もれていると思われていたが、摂津国の船坂の人が夢告によって訪ねて来て、山の南にある池のなかより阿弥陀仏を得て、今は船坂の地で尊崇されている。
この東光寺の「略縁起」の場合は船坂の人が自ら上久米村の地に出向き阿弥陀如来を持ち帰って祀った、という点が他の縁起と違っている。

 

<新修加東郡誌 昭和49年>
寺歴と伝説の記事が見られる。
(1)久米村の東旭山西教寺(真宗本願寺派)の寺伝によると、
南北朝時代、新田義貞の弟脇屋義助の家来で粟生尭信という人物が、延元元年(1336年)摂州有馬郡船坂の戦いで敗れ、久米の地に遁世(とんせい)の居を定めた。その4世である喜平治が、たまたま池の中から黄金の阿弥陀像を発見し、自宅で祀っていたが夢告に従い、船坂の善照寺に送った。喜平治は、奇縁を喜んで蓮如上人に帰依し、得度して名を実乗と改め、文化3年(1471年)久米村に惣道場を創設した。その後、2度にわたる火災にあい堂宇は炎上したが、元禄15年(1702年)現本尊を迎え、西教寺というようになった。
この寺歴は善照寺の本尊の移置について、久米・船坂両地の連なりを示すとともに、仏像の出現の地を久米村としているところに特色がみられる。

(2)加東の伝説の黒い阿弥陀さま
久米村の喜兵衛というじいさんが、稲田の見まわりに行ったとき、山の側の小池に浮かんでいる黒い阿弥陀さんを見つけ、拾い上げて持ち帰り、家の仏壇で祀っていた。喜兵衛は金属製の仏像が池に浮かんでたことを不思議に思い、「誰かが仏像を寺から盗みだしたが始末に困り池に投げ込んだ。信心深い自分が側を通ったので、助けを求め浮かび上がったのだ」と合点していた。 数日後の夜中、自分の名前を呼ぶ声で目醒めた喜兵衛は、声の主が仏壇の阿弥陀さんで「喜兵衛、船坂へお返し申せ」と言っているのを聞いて恐懼(きょうく)して座り込んでしまう。
翌朝、喜兵衛は阿弥陀さんを船坂に送ることにするが、船坂村がどこにあるのか、皆目見当がつかず、阿弥陀さんが池に浮かんでいるとき、その指が辰巳(東南)の方向を差していたことを思い出し、仏像を背負って道を東南方向に進んだ。
翌日夕方、宿についていると1人の僧が、船坂村善照寺の住職だと名乗ってやってきた。 夢告により阿弥陀さんを迎えに来たといい、阿弥陀さんが純金製のため盗難に備えて真っ黒に塗っておいた旨も告げた。そして、2人同道して、無事阿弥陀さんを善照寺の本尊として納めた。
この伝説を語るところは、船坂の善照寺で盗難にあった仏像が久米の池に捨てられ、もとに返してもらったということにより、両地の連なりを説明しようとするもので、他の伝説や縁起にはみられない異色のはなしである。

 

<久米村・塩寺家の伝承>
「黒い阿弥陀さま」の伝説と共通点は多い。
塩寺家の先祖の喜兵衛という人が、ある日、井戸へ水を汲みにいったところ、そばの池に阿弥陀如来が浮いていた。喜兵衛は像を家に持ち帰り仏壇に祀った。仏像は夜ごと「船坂へ送れ、送れ」と寝かせてくれず、霧の箱に仏像を入れて、木綿の紐で肩に引っ掛け有馬の方向へと行った。
このような縁で、現在も塩寺家の当主は毎年春と秋の彼岸に善照寺を訪れておられる。

これらの話から善照寺の阿弥陀如来は東播の久米周辺から伝来したものであろうと推察されるが確証は得られていない。
久米地方の縁起や伝説に善照寺の如来さんが数多く登場するのはなぜであるのか不思議である。ただ、船坂または善照寺と久米地方とは古くから何らかの交流があったことは間違いがないといえる。

 

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