西宮市山口町は昔からいろいろな街道が交差しているところで、歴史的にも様々な痕跡が残っています。わが町を見直すきっかけになり、さらに山口町に来ていただく方々のためにも、その街道の整備を考えようという動きが出来ています。
実際に整備されるまでは、まだ少し時間も必要なようですが、2010年に発行された『山口町史』(財団法人山口町徳風会発行)からの抜粋で西宮市山口町の石造遺物をご紹介しましょう。
山口の石造遺物
山口町域には、多数の石造遺物が各地に点在している。
幾星霜風雨にさらされ、苔むしたその姿は味わい深く、ときの重さを刻む標である。
ここではその貴重な石造遺物の由来および碑文を、すべてが風化してしまわないうちにとどめておきたい。
道標 上山口一丁目(十王堂橋西詰)-1
十王堂橋を渡り、金仙寺坂を登って船坂へ出る。
その昔、山口から京都や大坂へ行く旅人がよく通った街道であった。
また、有馬温泉の湯治客や、丹波杜氏(酒造り職人)などが往来した道でもあった。
橋の西詰めに建っている道標は、明治三十四年(1901)当時、山口と和紙の取り引きをしていた大阪のある紙問屋がたてたといわれている。
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道標 船坂(県道沿い)-2
船坂集落の中心部、県道宝塚―唐櫃線沿いにたっている自然石の道標は、高さが140センチもある立派なもので、元は現在の場所から南東へ約180メートル離れた、旧道の三差路付近に立っていたが、昭和三十五年県道の拡幅工事が完了したのを機会に、現在地に移されたものである。
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道標 (墓碑)金仙寺墓地―3
金仙寺地区の共同墓地に、道標を兼ねた珍しい墓石があったが、墓地の改修により、いまは下山口光明寺の境内の一角に移設されている。
墓地の横の道路は、昔、湯山街道と呼ばれ、有馬へ行く湯治客にとってはよき「道しるべ」であったと思われる。
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道標 (地蔵立像)名来字下り松(平尻道沿い)-4
名来集落の東方、平尻道沿いに小さな石の地蔵尊が祀られている。光背と呼ぶ部分に「右ハ清水道、左ハ在所道」の文字が刻まれている。この道は西国巡礼の札所である中山寺と清水寺を結ぶ道路でもあったので、巡礼者のための道標を兼ねていたものである。地蔵尊は誰が、いつ頃建立したのか不明であるが、現在の位置は道路の西側で東向きにたっており、関係者が移設したもので、表示文面からすれば、道路分岐点の正面で南向きにたっていたものと思われる。
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道標 名来二丁目一ニ一番地―5
名来二丁目の一角に小さな祠があり、大小二体の地蔵座像が祀られている。村のある旧家が先祖を供養するために祀ったといわれているがその時期については不明である。
専門用語では、仏像台石型の道標と呼ばれているものであるが、以前は現在地より50メートルほど南の旧道路端に鎮座し、旅人達の安全を見守ったと伝えられている。
この旧道は道幅一間(約180センチメートール)ほどで下山口から名来の村を経て、三田へ向かう道であったが、途中から分岐して二郎(有野町二郎)へ行くこともできた。
いまでは土地区画整理事業が実施されたため地域の様子も一変した。
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道路元標 下山口四丁目七三八番地地先―6
道路元標は隣りの町村との距離をはかるとき、基準となる標柱のことで、村の中心部に設置されている。
大正九年(1920)に施行された道路法で設置が義務づけされ、当時兵庫県では424の市町村にたてられた。
石質は御影石、形状・寸法は全国共通で内務省令第二十号により定められたものである。
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丁石 丸山稲荷神社南参道入口―7
丁石(ちょういし)は、神社や仏閣に参詣する人びとのために、参道脇に一町(109メートル)ごとにたてられている標石のことである。
丸山稲荷神社には南参道の入口から頂上までに六基の丁石がある。
これは同参道の入口にたてられた最初の丁石で、施主の氏名が刻まれている。
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供養塔 山口町郷土資料館展示室―8
西国巡礼供養塔を兼ねた珍しい道標。西国三十三カ所巡礼の長い旅に出た九名の人々が満願成就を感謝し、報恩供養のために村の道筋にたてたものである。
この道標は、以前下山口の墓地にたっていたが、平成五年山口町郷土資料館ができたとき、同資料館に移され展示されている。
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供養塔 公智神社境内―9
公智神社の拝殿前に、文化十一年(1814)にたてられた西国巡礼供養塔がある。
重厚な自然石で造られているが、西国巡礼と神社との関係はどうなのか、奇異に思われるが神仏習合時代の名残か、また他所から移されたものではないだろうか。
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供養塔 下山口光明寺境内―10
西国三十三カ所巡礼の道筋にあたる町域には江戸時代の西国巡礼供養塔と呼ぶ石碑が多く残っている。
下山口の光明寺境内には、文字が判読できないものを含めて九基が現存している。
これはその一基であるが、正面に刻まれている文字はさまざまで、石碑の下部には花の紋様が刻まれている。
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供養塔 下山口墓地―11
大きな墓石に囲まれて、下山口の墓石にひっそり立っている小ぶりの西国巡礼供養塔は、延享元年(1744)に同行五人がたてたものである。
町域の近辺に多く見受けられる供養塔の大部分は1700年代のもので江戸時代の中期には、西国三十三カ所巡礼が盛んであったことを物語っている。
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偈碑 中野受西寺境内―12
碑文は未徹居士と名乗る人物の「悟り文」といわれている。
碑は元禄二年(1689)にたてられたものであるが、明治三十五年(1902)中野字東山の受西寺墓地から、受西寺の境内に移されたものである。
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土祖神碑 下山口四丁目406番地地先―13
下山口四丁目の路地端に「山口開発土祖神」と刻まれた大小二基の石碑がある。大正九年(1920)の建立であるが、誰が何の目的でたてたのか、文献がないので正確なことは判らないが、口伝によると、山口の郷を開拓した先覚者たちを祀ったもので、下山口の人々は「地神さん」と呼んでいる。以前は二カ所に分散して祀られていたが、最近土地所有者の都合により、現在地にまとめられたものである。
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墓碑 下山口墓地―14
山口町の三カ所に竹本某太夫の墓碑がある。たてられた時期は、いずれも江戸時代の1800年代に集中している。
町域ではこの頃、若者たちの間で浄瑠璃が盛んで、弟子たちが、師匠の供養のためにたてたものと思われる。
この墓碑は下山口の墓地にあるもので、台石には「連中」の文字が刻まれている。いまでも子孫が墓守りをしている。
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墓碑 上山口二丁目七番地―15
竹本加治太夫の本名は、過去帳によると「三代目・糀屋太郎兵衛、嘉永四年(1851)五月十五日寂」と記されている。
墓碑の台石には「門弟中」の文字が刻まれており、師匠を慕って弟子たちがたてたものと思われる。
もとは上山口集落の東の山林(上山口字岩見)にたっていたが、土地区画整理事業の為に現在地に移設された。
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墓碑 名来字上平尻 ―16
旧平尻道に面した一角に、江戸時代にたてられた三基の墓碑がある。そのうちの一基が「竹本多賀太夫の塚」である。
文献がないので正確なことは不明であるが、下山口墓地の「竹本増太夫の塚」や、上山口二丁目にある「竹本加治太夫の墓」と何らかの開運があるように思われる。今後の調査に期待したい。
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墓碑 (句碑) 名来字上平尻 ―17
同じく上平尻に宇滴宗圓と記した墓碑がある。台石に「ゆか女建之」の文字が見えるが、両名ともどんな人物かわからない。
碑の正面には「暮るる日は 暮れても明し雪の上」の句が刻まれている。
裏面に芝金次良の名がみえる。この人物についても、多くの口伝が残っているが、素性等については不明である。
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墓碑 名来字上平尻 ―18
上平尻に三基並んでいる墓碑のなかで、文字が薄れ、最も判読しにくいのがこの碑で、正面に「蝸牛菴左梁」の文字がわずかに読み取れる程度である。
この場所にはなかば土に埋もれた数個の大きな石が転がっており、そのなかに「惣連中」と刻まれた台石が見受けられた。
さらに調査すると新たな発見があるように思われる。
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社標 (石碑) 下山口四丁目(宮前通り)―19
公智神社のお旅所の北隣、宮前通りの入口付近に「式内 公智神社」の石柱がたっている。
正式には「社標」と呼ぶが、石質、仕様ともに「孝徳天皇行在所址」の史跡碑と同質で、同じ時期にたてられたものと推定される。
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石灯籠 公智神社境内 ―20
公智神社の境内には、江戸時代に氏子から寄進された四対八基の石灯籠」が現存している。
正徳五年(1715)に寄進されたいちばん古いものがこの灯籠であるが、年代によって姿、形が少しずつ違っている。
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狛犬 公智神社境内 ―21
公智神社には旧神興殿と拝殿まえの二カ所に狛犬が奉献されている。
これは旧神興殿前のもので、大正八年(1919)に氏子によって寄進されたものである。
犬は元来警戒心が強い動物とされ、邪鬼を追い払いという意味から、神社の魔除けとして広く用いられてきたもので、昔中国大陸から伝わったといわれている。
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<上記の記述は平成22年に発行された、財団法人山口町徳風会が発行した山口町史より転載させて頂きました。>