山口地域の住民から親しまれている高さ378メートルのお山。
角度によっては尖って見えますが、金仙寺湖からは名前の通りぽっこりと丸いお山です。
以前は山頂にあった丸山稲荷神社(⇒)は震災で倒壊したため麓に立て替えられましたが、山頂には奥社が奉られています。
丸山へは3本の参拝登山ルートがありますから、いろいろ楽しんで下さい。
春にはコバノミツバツツジがとてもきれいです。
丸山城趾
丸山城(山口城)趾は下山口字五郎左衛門屋敷1078(丸山山頂)にあり、城主は山口五郎左衛門時角で戦国時代末期(天文~永禄)3000石を領し、山口村を中心に近郷に勢力を有していたが天正年間の戦で落城したと伝わっています。 山口氏は多田源氏の一門で、千足山金仙寺を菩提寺にして館を金仙寺に構え、館の東丸山に保塁を築いていたようです。 この地は、生瀬口から名塩、東久保を経て湯山(有馬)と丹波道に至る分岐点で重要な地でした。 (金仙寺観音堂はこちら⇒)
丸山城落城について諸説あります。
隣村、道場町の城主松原右近太夫貞利に滅ぼされたという説。[摂北軍談]
羽柴秀吉の三木別所征討時に、中川清秀、丹羽長秀、塩川国満により滅ぼされたという説。[有馬群誌]
五郎左衛門が三木別所方に味方したため、有馬群領主赤松氏に滅ぼされたという説。
[有馬郡誌]によると、城趾にお祀りされている稲荷神社に詣する者、祈願成就の時に絵馬に必ず佐久間玄蕃の絵を描く言い伝えがあり、甚だ奇風ですが城主山口氏の怨魂を慰める同情祈願となっているようです。
佐久間玄蕃とは、佐久間盛政(1554-1583)と言い戦国時代から安土桃山時代の武将で、織田信長の家臣で勇猛さから鬼玄蕃と呼ばれていました。 本能寺の変で織田信長の没後は柴田勝家に仕え、羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いでは急襲作戦が見事に功を奏し中川清秀を打ち取り、戦いの緒戦を勝利に導いた武将と言われています。
五郎左衛門は滅亡の運命をたどりましたが、その婦人と二人の遺児は春道(下山口)に落延びて、母亡き後二人の遺児は立身出世してそれぞれが下山口と江戸の浅草とに銭塚地蔵尊を建立し供養したと伝わっています。[有馬郡誌] (銭塚地蔵尊はこちら⇒)