湯山街道
古代、有馬は湯山とも呼ばれ、「生瀬―船坂―金仙寺―湯山」への道を湯山街道(或いは有馬街道)と呼ばれた。この街道は京都、奈良方面から湯山への主要街道で多くの文人達も通っていた。また、行基菩薩や弘法大師、有馬温泉を復興した仁西上人にまつわる言い伝えや豊臣秀吉の「太閤のしるべ岩」など多くが残っている。当時の街道は太多田川の瀬づたいの道(小多々渓;摂津名所絵図)であったので「四十八ヶ瀬」・「四十八飛び」など称され、雨が降ると通行の難所になっていた。
太多田川の瀬伝いに通称「清水」で陸に上がり、元船坂小学校校庭を経て善照寺・船坂川西側から湯山へと続く。
奈良時代後期から平安時代にかけて船坂から湯山へ金仙寺径由湯山へつながる街道になった。江戸の頃、船坂から直接湯山へ繋がる街道になった。