紫雲山 受西寺(じゅさいじ)
真宗大谷派(東本願寺末)で、本願寺中興の祖と言われる蓮如上人(1415生1499没)が真宗布教のため開かれたといわれていますが確証はありません。寛永十三子年(1636年)、中興の祖である秀益より継承し現在に至るとあります(寺記)。本尊は、阿弥陀如来。
境内の石碑 (クリックすると石造遺物のページに行きます)
境内には珍しい石碑がある。高さ五尺、幅約三尺位の自然石に、
未徹居士自偈
是非都尽
心無一事
万法自然
善悪不二
元禄二己巳年中春 ※(元禄二己巳年=1689年)
ときざまれてあり、はじめ中野字東山にあったものを、明治35年にこの地に移したものです。
この詩は、禅宗の僧が創作したものと思われますが、なぜこれが中野字東山にあったのかは、わかりません。
編集部では、頭をひねって辞書にも相談して、訳してみました。別の解釈があれば教えてください。
未熟者の私が仏を賛美して書き記します。
絶対的に正しいというものはない。
心の中に不必要なものを持たないようにすると、見えてくるものがある。
この世で起こっている一切のことは、因縁により生ずる自然の理法である。
善と悪のように、たとえ現象としては、違うもの、反対に見えるものでも、比較の問題であって、本質を見極めればもともと一つのものである。
慈母の欄間
なお同寺にある慈母の欄間は、特異な作品として注目されています。
『二十四孝』(にじゅうしこう)は、中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物です。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、孝行を特に重要な徳目としました。
日本にも伝来し、仏閣等の建築物に人物図などが描かれています。また寺子屋などでも教育に使われたようです。
ここ受西寺のものは、左が「郭巨(郭巨埋儿)」、中央がの「唐夫人(乳姑不怠)」、右が「董永(売身葬父)」がモデルと思われます。
江戸時代には、山口の子供たちはここで親孝行を教えられたとことでしょう。
また、山口村誌を読むと、明治6年に新制による(寺子屋教育は明治5年に廃止)山口小学校が発足したが、学校施設が無いため、中野の子供は受西寺で教育を受けたとあります。
「郭巨(郭巨埋儿)」の故事
郭巨の家は貧しかったが、母と妻を養い、妻に子供が産まれ三歳になりました。郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えて生活していました。郭巨が妻に「我が家は貧しく母の食事さえも足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」と言います。妻は悲嘆に暮れたが夫の命には従う他無く、三歳の子を連れて埋めに行きます。郭巨が涙を流しながら地面を少し掘ると黄金の釜が出、その釜には「孝行な郭巨に天からこれを与える。他人は盗ってはいけない」と書かれていました。郭巨と妻は黄金の釜を頂き喜び、子供と一緒に家に帰って更に母に孝行を尽くしました。
「唐夫人(乳姑不怠)」の故事
唐夫人は、姑の長孫夫人によく仕え、姑に歯が無いのでいつも乳を与え毎朝姑の髪をとき、その他様々な事で仕え、数年が経ちました。ある時、長孫夫人が患い、もう長くないと思い一族を集めて言うには「私の嫁の唐夫人の、これまでの恩に報いたいが、今死のうとしているのが心残りである。私の子孫達よ、唐夫人の孝行を真似るならば、必ず将来繁栄するであろう」と言いました。この様に姑に孝行なのは過去現在珍しいとして、皆褒め称えたと言います。このため、やがて恩が報われ、唐夫人の家が将来繁栄する事は当たり前の事であると故事は伝えています。
「董永(売身葬父)」の故事
董永(とうえい)は、幼い時に母と別れ、家は貧しくいつもの雇われ仕事の小銭で日々暮らしていました。父は足が悪かったので、小さな車を作って父を乗せて田んぼのあぜまで連れて行き、農作業をしていていました。そして父が亡くなると葬式をしたいと思ったが、貧しいのでお金がありません。そこで、身売りをしてその金で葬式を出しました。身請け主の所へ行こうとすると、途中で一人の美女が現れ、その美女は「私は董永の妻となるべく、絹を織って身請け主に届け許されました」と告げました。そして董永の妻となり、最後に「私は天の織姫ですが、貴方の孝行な心に感じて天が私にお命じになりました」と言い、天に帰って行きました。
☆ちょっと耳寄りな話
受西寺の庭は、ひっそりとしたたたずまいの中にあります。
竹林が静かな雰囲気をかもし出しますが、この竹林から見える春の桜はなんともいえず美しいです。
また、シーズンにはホタルが飛び交いますが、ここには余分な光がないので、知る人ぞ知るホタル撮影のマル秘ポイントになっています。
最寄りのさくらやまなみバス停:中野