下山口地区の「だんじりの由来」を知ろう
平成22年3月7日(日)夜、上地車新報社(かみだんじりしんぽうしゃ)中野博文氏をお招きし、下山口のだんじりや祭りの運行などについて興味深いお話を聴かせていただきました。
この日の会には、宮本だんじり会のメンバーを中心に20数名の皆さんが参加し、活発な意見交換もあって有意義なものとなりました。
中野氏のお話から、下山口のだんじりの由来を、推測も入りますが以下のようにまとめました。
※写真は古いので少し見にくいですが、クリックすると写真が大きくなり、だいたいの時代が表示されます。
【大だんじりについて】
・ 大だんじりは、明治28年(1895)9月1日に造られたという。
・ 大工の棟梁は、麻尾徳蔵氏。宝塚市の米谷(まいたに)村に居をかまえ、屋号は「大與(だいや)」を名乗っておられた。
・ 細工人には、今井寅蔵氏、播磨枩蔵氏、麻尾靏蔵氏、麻尾辨太郎氏が名を連ねておられる。この人たちは、米谷村や小濱村の大工さんで、麻尾靏蔵氏は当時15歳であった。
この人は、地元米谷村のだんじり祭りにも参加し、だんじり太鼓の名人で鳴り物にはうるさかったらしい。
・当家では清荒神山門を作事したと伝わっている。
・ 彫物師は、小松源蔵氏であるが、この人は、謎の多い人物で生没年がはっきりしない。
源蔵氏は小松一門の7代目と推察され、幕末から明治にかけて大阪・神戸・淡路の各地でだんじり彫り物の作品を残している。
しかし下山口のだんじりの彫り物が明治28年に彫られたとすると、小松氏の当時の年齢は100歳ぐらいになることから、以前に製作されたものが使われたということも想定されるが、詳しいことはわからない。
大だんじりは、関西ナンバーワンの大きさ、移動舞台としてにわか芸も?
・ 下山口の大だんじりは、おそらく関西No.1の大きさといっても過言ではない。
その大きさに加え、装備の特徴から考えると、曳き回すためよりも、にわか芸・漫才・舞踏などのだんじり芸を行なう移動舞台として設計・建造されたのではないかと想像される。
だんじり正面の前部が表舞台、後部が楽屋、後正面の勾欄(こうらん)が出入り口と考えられる。
過去には、伊丹から西の地域で、にわか芸を行っていた記録が残っている。
・ もう一つの特徴は、大多数のだんじりでは、柱が妻台より後・内側に配されているのに対して、下山口の大だんじりは前柱2本が妻台より前・外側に配されていることだ。
にわか芸の表舞台に芸人・囃子方、はたまた子供たちが多数乗り込んだ場合、重たい前方で舵を取るよりも後方で舵を取るほうが容易と考え、少しでも 重心を前方に置くための工夫がなされたのではと思われる。
・ そして前幕・飾り幕(大幕)・土呂幕の三枚の幕を張る構造を、三枚幕式の幕だんじりと言い、宝塚(旧宝塚・長尾村)地域や伊丹地域、西宮市名塩地域等に多く見られる形式である。
・ また勾欄親柱・地覆に施されている波濤の彫刻は、宝塚・伊丹のだんじり、太鼓台の一部に見られる装飾で、安倉 浅野家や小濱大工が好んで使った装飾と思われる。このほか随所に手の込んだ細工が見られ、大工仕事の丁寧さがうかがい知れる。
【小だんじりについて】
下山口の小だんじりの由来については、資料が一切残されておらず不明である。
小だんじりという名称だが、大きさは山口の他地区のものと比べると大きい方の部類に属する。
下山口のだんじりは、「かみだんじり」
・ だんじりの様式は、「かみだんじり」と「しもだんじり」に大きく分けられる。
「かみだんじり」とは、だんじり本体の周囲にちょうさい棒(肩背棒・担い棒)を取り付けただんじりの名称。
ちょうさい棒を取り付けていない岸和田のだんじりなどは「しもだんじり」という。