大正4年(1915年)開通
年間の湯治客が20万人を超える有馬温泉と福知山線三田駅を結ぶ、全長12.2㎞の鉄道が大正4年(1915年)、京阪神の有力財界人が発起人となる有馬鉄道株式会社により完成しました。
有馬駅(終点)
当時の山口村では、計画の段階で対策委員会を設けて鉄道会社と交渉しました。
交渉の中身は①鉄道用地の買収②停車場の設置場所と駅名③会社側が要請している寄付金問題などです。
山口村が要望していた「山口駅」は実現せず「有馬口」という駅が、光明寺の下に設けられました。(現在では、駅前橋としてその名残が残されています。)
鉄道開通の前日には、公智神社で開通報告祭が盛大に行われました。また、翌日には餅撒きが行われ祝賀気分を盛り上げました。
有馬軽便鉄道は完成と同時に、鉄道院(鉄道省の前身)が向こう10年間、借用料を支払うことで運営を始めましたが、大正8年(1919年)、政府が買収し国鉄有馬線となりました。(昭和18年に廃線)
三田・有馬が30分
有馬線は、三田と有馬を結ぶ12.2㎞の鉄道で、福知山線三田駅から分岐して終点有馬駅までの間に塩田、新道場、有馬口(下山口)の3駅を経由して、旅客や物資の輸送を行いました。
線路は三田から有馬口までは、ゆるやかな登り勾配ですが、有馬口と有馬の間は、当時の国鉄の建設基準の最高値を示す登り勾配が随所にあり、雨天の日などはよく機関車の車輪が空転することから、機関士の腕の見せどころとなりました。
開通当時の運行回数は1日に6便でしたが、その後7便になりました。
三田、有馬間の所要時間は、30分から40分でした。
有馬口駅(下山口)は有馬まで約10分、当時の有馬郡の政治経済、教育の中心地三田までは約20分の位置にあり、駅勢圏(利用する乗客の範囲)も山口村をはじめとして、隣の有野、八多、塩瀬などにも及んでいました。
有馬口(下山口)の駅付近
山口産物の流通に貢献
有馬口駅(下山口)で取り扱われていた貨物類は、米を中心とした穀物類、山口の特産「竹籠」や「寒天」の原材料や製品等で、駅の構内には日本通運の営業所や山口信用購買組合の農業倉庫がありました。(竹籠や寒天など、山口の産品については山口町郷土資料館で資料を見ることができます。)
しかし、昭和3年(1928年)になると神有電鉄(現・神戸電鉄)三田線が開通し利用客が減少しました。
昭和12年(1937年)日華事変が勃発した頃から、多くの若者たちが軍人として有馬口の駅から戦場へと向かいました。
そして、太平洋戦争が深刻化し始めた昭和18年(1943年)6月30日、国策により廃線となりました。開通以来わずか28年でした。
山口センター付近の橋脚(昭和38年)
廃線の理由は、当時丹波地方で大量に採掘されていた軍需物資「硅石」の輸送を目的に、篠山線が計画され、これに有馬線の鉄道資材を転用するためでした。
有馬線の廃線が山口地域の産業、経済に与えた影響はまことに大きく、廃線から昭和26年までの8年間、人口がまったく増えなかったのです。
有馬線の廃線計画を知った村当局では、昭和17年に対策協議会を結成し、存続についての陳情活動を行いましたが、廃線は決定的でした。
※この記事は、財団法人山口町徳風会が発行した「山口町史」をもとに作成しました。(編集部)
現在山口町中野の十八丁川の谷に有馬軽便鉄道(国鉄有馬線)の橋脚が残されているのを見ることができます。
しかし、この橋脚も県道有馬・山口線バイパス工事のため取り壊されます。
地元では名残を惜しんで、2011年9月3日に「さようなら橋脚 現地見学会」が山口・船坂校区青少年愛護協議会の主催で開催されます。