はじめに
山口の歴史については、有馬郡誌(昭和4年・兵庫県有馬郡会発行)、山口村誌(昭和48年・西宮市発行)、山口町史(平成22年・財団法人山口町徳風会発行)で詳しく述べられています。
ここでは、この3冊の書籍をもとに、編集部が個人的興味とこのホームページの果たすべき役割を念頭に書いてみました。
なるべく短くと思ったのですが、書き始めると関連性が気になって、あれもこれもで、結局相当な分量になってしまいました。
伝承の部分も多いので決して正確さに着目しないでくださいね。
西宮山口に来られるときに、昔の話を少し知っていると、まち歩きも楽しいものになると思いますよ。
古代の山口
現在の山口地区の人口は、平成22年の国勢調査では、18121人、6020世帯です。
では、昔はどうだったのでしょうか。
船坂を含めた山口村の人口についての最も古い記録は、明治17年7月に山口村が発足したときのもので、人口1835人、戸数は413戸です。
古代からの長い歴史の中でも、明治時代までは、大きな人口の増加は見られなかったようです。
耕地面積が少なく、自給自足にまで至らなかったのが理由としてあげられます。
6世紀末に造られたとされている「青石古墳」が下山口字青石で発見され、村内各地域で須恵器などの破片が採取されているので、この頃から農耕に従事している人たちがこの地に居住し、ある程度の力を持った者がいたことが想像されます。
大化の改新以後の8世紀には、地域の呼称として春木郷(後の有馬郡が概ね当てはまる。)の名が見られますが、当時の一郷の単位は50戸で、郷の広さから考えると、山口がまだまだ未開の地であったことがわかります。
孝徳天皇と有間皇子と西宮山口
大化の改新から間もない647年(大化3年)に、孝徳天皇が3ヶ月間も有馬温泉に行幸されました。
その際に閣僚、下級役人、従事者を合わせると数百人に達すると思われる人たちが滞在するための宿泊施設を建設したはずですが、確かな場所はわかっていません。しかし宮前通りには、これを記念して「御旅所」「孝徳天皇行在所跡」の碑が建立されています。
当時の地域居住人口を考えると、天皇が来られて、たくさんのおつきの方々が滞在されるのですから、大変なビッグイベントだったでしょう。
孝徳天皇は、以前から足が悪く、その治療のため有馬温泉に来られたとされていますが、随行役人たちによる地域の行政視察が主目的であったとも言われています。またこの地方の豪族と親交を深める意図もあったことでしょう。(このことは後で述べます。)
軽皇子(のちの孝徳天皇)は、私たちが学校で習った大化の改新の話にはあまり登場しませんが、実は首謀者であったという説があります。
山口と孝徳天皇を強く結びつけるものに、第一皇子である有間皇子の存在があります。
有間皇子は、有名な万葉歌人で、お母さんは左大臣阿倍倉梯麻呂の娘である小足媛(阿倍小足媛)。
阿倍氏は、当時春木郷一帯に勢力を持っていた豪族久々智氏と同族でしたから、山口との関わりが強い皇子ということです。
この頃の皇子の名は乳部と氏族にゆかりのある地名をつけることがならわしであったようです。(本居宣長「古事記伝」)
現在神戸市の有野町にある有間神社は、むかし山口(下山口山王谷)にあったといわれています。
まさに山口出身の小足媛を母に持ったということになります。
有間皇子は、謀略によって658年に大和の藤白坂で殺されました。19歳でした。
非業の死を遂げたことが孝徳天皇と有間皇子への追慕の念を強いものにし、平成の山口町の住民の心の中に生き続けることとなりました。
中世の山口
968年に摂津源氏の祖、源満仲が摂津の守となり、川辺郡多田庄に居を構えて、多田源氏として長らくこの付近一帯を支配することになります。
1114年(中右記)には山口庄という名が見えますが、約200年後の「小山家文書」には摂津国久智荘とあり、「久智荘、正平七年(1352年)の文書に見ゆ、延喜神名帳有馬郡公智神社は郡の山口村巧地山に鎮座せりといえば、その辺即ち荘厳なるべし」と記されています。
公智神社を中心とする荘園だったのか、はたまた小山氏が久智荘をいつまで領していたのかわかりません。
南北朝以後、14世紀から15世紀にかけての室町時代、有馬郡は播磨の赤松氏の支配下にありました。
1467年に発生した応仁の乱の以後は、次第に覇権争いが激化し、豊臣氏によって全国が統一されるまで100年続く戦国時代となりますが、山口は摂丹播に通ずる交通の要所で、戦略上重要な地であったことは間違いありません。
山口五郎左衛門
丸山城や銭塚地蔵などの伝承でよく登場する山口五郎左衛門時角(丸山城主)については、実在を立証するものがありませんが、天正の頃に当地域の名主級の人物として存在していたようです。
近世の山口
織田信長によって戦国の時代もようやく安定の方向に向かい、それにしたがって有馬温泉への湯治客も増えたことで、宿の手伝いや、米、柴などを売りに出かけるようになり、山口に村落が形成されていきます。
村落の形成
1579年には、秀吉が山口庄五ケ村百姓に道普請をするようにとの下知状を出していますので、このときには既に五ケ村が存在していたわけです。(名来村・下山口村・上山口村・中野村・舟坂村)
また、1594年には五ケ村の検地が行われています。(太閤検地)
関が原の合戦後、豊臣氏の勢力は後退し、それに伴って従来の豊臣氏の直轄地であった有馬郡は、1601年旧領主有馬則頼(法印赤松氏)が再び領主となりました。
1620年に領主有馬玄蕃豊氏が九州に移封され、山口村は幕府の直轄領となりました。
その後江戸中期の1746年になって、名来・下山口の両村は田安領となり、上山口、中野、船坂の各村は直轄領として明治維新まで続きました。
徳川家康は、政権を握ると統制を強化しました。
社寺も幕府の統制下に置かれ、寺には本寺・末寺の制度をつくって、この組織に檀家制度を定め、寺では戸籍(宗門人別帳)を管理して領主に届け出ることを義務化しました。
また士・農・工・商の身分制度を確立し農民の中にも階級をつくりました。
18世紀のはじめごろから、幕府や諸般の財政は極度に窮迫し、農民は高率な貢租などにより生活はますます苦しくなり、各地には百姓一揆が続発しました。
「上山口村五人組名寄帳」(1847年)によると当時の上山口村の戸数が104戸であったのが92戸に減少していることから当時の状況の厳しさが想像できます。
生瀬街道は大賑わい
圧政下の農民にとっては、収穫が最大の関心事でした。
1827年(文政十年)前後は凶作であったものが、1830年(天保元年)には空前の豊作に恵まれ、伊勢神宮におかげ参りに行く人々で生瀬街道は大賑わいになりました。
文政のおかげ参りは、全国からの参詣者数が427万6500人とされており、当時の日本総人口が3228万人(1850年)人( ウィキペディア・フリー百科事典)ですから、とんでもない数が伊勢神宮に参詣したことになります。
伊勢神宮では、中世の戦乱の影響で領地を荒らされ、これを建て直すため、神宮で祭司を執り行っていた御師(おんし)と呼ばれる人たちが、農民に伊勢神宮へ参詣してもらうように暦を配るなど各地へ布教するようになりました。
山口も大きな流れの中で動いていたようです。
講の結成
江戸時代は、移動の自由が制限されており、社寺の信仰団体組織の名でなければ大勢が旅行することができません。
そのため、数多くの講社が同志によって結成されました。
山口には西国巡礼の供養塔がいくつか残されています。
何日もかけて行く旅行には相当な費用がかかるので、講で積み立てて順番に出かけたようです。
講は、娯楽に恵まれなかった時代の庶民の最大の娯楽でした。
そのいくつかは現在の山口にも、伊勢講、善光寺講、百味講、地蔵講などといったかたちで引き継がれ残されています。
私たちの西宮山口は、先祖のご苦労に思いをはせ、互いに協力し合いながら生きていく、つながりを大事にしています。
以上、駆け足で江戸時代までの千年以上の山口の歴史を紹介してみました。
興味をもたれた方は、最初にご紹介した3冊の書籍をご覧ください。
そして、ぜひ西宮山口を歩いてみてください。