紙すきや竹籠作りなどを副業としていた平和な山口の里が大きく変貌したのは、昭和46(1971)年、町の西はずれの畑や野山に巨大な流通団地が出現したからです。 県が阪神地区の物流拠点として計画し、中国自動車道の西宮北ICに近いということで白羽の矢を立てました。総面積84ヘクタール。総事業費268億円。...
北六甲台小学校は山口町の変貌の中から生まれました。 山口町など北部地域は、昭和38(1963)年7月の近畿圏整備計画で、昭和40年代後半から計画的な市街地開発が実施されました 大きな居住地となった北六甲台住宅団地(昭和62年完工)、翌年にはすみれ台住宅団地、さらに上山口・丸山土地区画整理で、周辺...
船坂地域は六甲の山麓に広がる緩やかな傾斜地で、農地が少ない所です。歴史は古く、鎌倉時代初期(1200年ごろ)には有馬温泉に近いことでその名が出ています。 地域の勤勉な村人たちが田畑を広げる手段として、傾斜地の開拓に乗り出したことは容易に想像できます。森林を切り開き、石を積み上げて段々畑を作るのは大...
山口中学校は戦後の教育制度の改革に伴い、昭和22(1947)年に山口小学校に併設するかたちで発足し、今年で創立70周年を迎えます。 地域の教育熱心さと努力により、2年後には木造2階建ての旧校舎が旧小学校の横に完成しました。 「昼になると家に帰り、ご飯を食べて、また学校に行った」「運動会は小・...
天然のホタルの生息で有名な有馬川。静かな川がその昔は豪雨のたびに氾濫する暴れ川でした。 戦時中、治山、治水対策が十分でなかったこともあって雨や風が吹くたびに有馬川と西川流域では災害をもたらしました。特に昭和35年(1960)年8月27日の台風16号による暴風雨の被害は甚大でした。山口支所前で道路が...
旧山口小学校は、現在の山口センターや駐車場のある場所にありました。 歴史は古く、明治6(1873)年2月に創立され、今年145年を迎えます。校舎が出来たのは明治10年のことで、北校舎と南校舎があり、山口中学校と山口幼稚園が併設されていました。 明治の末期には、全国に先がけて集団登校、遠足...
終戦後、若者たちが集い、山口青年団(船坂地区を除く)が新たに結成されました。楽しみを求めて娯楽活動が盛んになり、素人演芸会が人気を集めました。 田植えも終わったころ、若者たちが、下山口公会堂で「狸御殿」などの演劇に加え、手踊りや音楽の演奏を巧みに演じ、拍手喝采でした。 当時を知る山口町の下平尾秀...
戦後の混乱期を切り抜けて町に明るさを取り戻したころ、山口に鼻の長いボンネットバスが走っていました。ガソリン車こそが復興のシンボルでした。坂道の大阪街道、でこぼこ道の有馬街道をあえぎながらも走っていました。 昔を知るお年寄りは「ガソリン車になって良かった。戦争中は木炭バスやった」と懐かしみます。バス...
新しい平成の年になったというのに、山口地域から市内中心部へ車で通れる道路がありませんでした。最短ルートの市道盤滝~船坂線は六甲山の山越えの上、悪路でした。 西宮街道の改修は旧山口村当時からの懸案で昭和62(1987)年7月、事業主体となった県が「盤滝トンネル有料道路事業」(3.5km、内トンネル内...
昭和27年当時の船坂小学校 ・・・・・立派な現校舎(平成22年3月に廃校) 山口地域の自慢の一つは、開校が市内でも一、二番という船坂小学校でした。 廃藩置県や断髪令などで騒然としていた明治5(1872)年、明治政府が学校設立などの学制を公布。その翌年の2月、船坂小学校が開校しました。100...
西宮山口